加藤七宝

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七宝の歴史

七宝とは、一般的に金属の表面にガラス質の釉薬をのせて焼きつけたものの事をさします。また“七宝”という語は、仏教(法華経)の経典にある七つの宝物 「金・銀・瑠璃(るり)・蝦蛄(しゃこ)・瑪瑙(めのう)・真珠・玖瑰(まいえ・まいかい)」を表し、その“七宝”に匹敵するほど美しいことから、この名称がつけら れたと伝えられています。
その起源は古く、世界最古の七宝は、ツタンカーメン王の黄金のマスクに代表されるような時代のもので、紀元前十数世紀にまでさかのぼります。その後ヨー ロッパ各地に分散し、日本には、6・7世紀頃に中国・朝鮮を経て伝わりました。日本に現存する最も古い時代の七宝としては、奈良正倉院に保管されている鏡の裏面に七宝が施された「黄金瑠璃鈿背十二稜鏡」や、宇治平等院鳳凰堂の扉金具などが有名です。
ただしこれらの七宝は、シルクロードを経て伝わった交易品や一部の渡来人の技術によって作られたものと云われています。


日本において七宝が盛んに作られるようになったのは17世紀になってからのことで、京都の平田彦四郎道仁が江戸時代初期に朝鮮の工人に七宝の技術を学んだと伝わります。
道仁は江戸幕府お抱えの七宝師となり、様々な作品を手掛けるようになります。
刀装具の装飾や城や寺社仏閣など(桂離宮中書院、日光東照宮、名古屋城など)の釘隠し、襖の引手などの装飾にも使われましたが、その技術は平田家の秘伝でありその用途も特殊だったため、万人に広まることはありませんでした。


江戸時代末期になって、尾張の地で梶常吉が独学で七宝の技法を解明し、「近代七宝」が始まったとされています。
常吉は江戸時代末期の尾張藩士の次男として生まれました。
七宝焼の美しさに衝撃を受けた常吉はオランダ渡りの七宝皿を手に入れ、周囲の反対を受けながらも、また失敗を繰り返しても諦めず10年以上にわたり研究をし続けます。その後貴重な舶来の皿を破壊して土台には銅が用いられていることに気がつきます。そして、研究を始めてから14年目の31歳の時ついにその製作方法を確立することに成功しました。
以降、紆余曲折ありながらも七宝は尾張で盛んに制作されるようになり、幕末には尾張の特産品として認識されるまでになります。
現在、愛知県には七宝焼に由来する“七宝町”という地名が存在しているほどで、その技術はこの地を中心に神奈川・東京・京都などに広がり、七宝づくりの伝統が受け継がれています。

日本の七宝

現在、中国ではお土産用に盛んに七宝のお皿などが製作されていますが、その七宝は“泥七宝”と呼ばれる、釉薬の光沢がほとんどなく、不透明でぺったりとした印象のもので、明治期以前は日本においても泥七宝が主流でした。
明治時代に入ると、日本において透明度の高い釉薬が開発され、また、並河靖之、涛川惣介という帝室技芸員にもなった人物の登場により、日本の七宝は花開き、1900年のパリ万国博覧会でも称賛を受け、他に類をみない独自の美術工芸品にまで高められました。


以降、有線七宝を基本として、様々な新しい技法が生まれていきます。有線技法(植線)に着目したもの、素地の素材に着目したもの、明治の末には現在行われている七宝の技法が全て出そろいました。
伝統的な有線七宝の製作技術も一層細密化していき、職人にはより高度な技術と習熟が必要とされるようになります。七宝に関しては、明治末から大正初めに技術的な頂点を迎えたと言われており、現在では再現も難しいような、極端に細密な文様、そして鮮やかな色彩の作品が生み出されたのです。
その後、大富豪や皇室向けに作られていた七宝は、庶民のアクセサリーとしても大変広まりました。
そして今現在、花瓶や額をはじめ、仏具やアクセサリーなど様々な製品が作られています。

尾張七宝とは

伝統的な有線技法や本研磨技術など、先人が築き上げた歴史と技を基本とし、愛知県は七宝町を中心としてつくられる七宝焼が“尾張七宝”です。


“尾張七宝”は、梶常吉に始まり現在まで継承・発展してきた、日本の七宝の本流です。
1995年には、産業として様々な経験や歴史が認められ、日本の七宝としては唯一、経済産業省の伝統的工芸品にも指定されています。
私たち、加藤七宝製作所もその流れの一つとして、名古屋の地で伝統の技を継承しています。

昭和30年頃の加藤七宝

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